教育基本法「改正」反対声明(06.12.06)
私たちは教育基本法「改正」案に反対します
教育基本法「改正」案の審議が今,国会で最終段階に入っています。政府・与党は11月16日,野党4党欠席のまま単独で衆議院での採決を強行し,審議は参議院に移されました。法案成立の危険が目前に迫っています。しかし,日本国憲法とともに誕生し,民主主義と平和を教育の理念として掲げてきた教育基本法が,国民の理解を欠いたままこのような暴力的な手法で「改正」されてよいはずはありません。タウンミーティングでの「やらせ質問」も含めて民主主義をわきまえない「改正」強行の動きに,「改正」案の危険な本質がすでに露呈しているのを感じます。国会の審議を尽くすこともなく,広範な国民の意思形成を図ることもなく,憲法に準じる教育の根本法が数をたのみとして「改正」されることを,私たちは認めることはできません。
「改正」案の最大の問題は,自立的な個人の育成を目的として教育の自由を保障してきた現行法を否定し,国家のために国民を育成する教育の国家統制へと道を開いていることです。「改正」に見せかけながら,法の基本精神が180度転換されています。なかでも「改正」案第2条では,「我が国と郷土を愛する」態度を養うことをはじめとして,多くの徳目が「教育の目標」として列挙されています。国家が国民一人ひとりの心の内面にまで介入し,国家の定めた「目標」に従う国民の道徳的育成の場へと公教育を変質させる危険を,そこに指摘しないわけにはゆきません。第6条では,このような「教育の目標」を組織的に達成することが学校教育に義務づけられ,第9条では教員にその「崇高な使命」を深く自覚して,職責を遂行することを求めています。教員を「全体の奉仕者」と定めた現行法の文言が削られ,教員は国家への奉仕者とされかねません。学校教育から自由闊達さが失われ,子どもや教員,国民にとって学校が息苦しい内面的強制の場に変容することを,私たちは認めることはできません。
「改正」案における教育の国家統制は,徳目の教育だけにとどまりません。「改正」案第16条では,教育は「不当な支配に服することなく,国民全体に対し直接に責任を負って」行われるべきという現行法第10条の表現が,「不当な支配に服することなく,この法律及び他の法律の定めるところにより」行われるべきと改められています。国家による教育内容への介入を厳しくいましめてきた現行法の「不当な支配」という言葉を巧妙に使いながら,ここでも法の基本精神が180度転換され,国家が法律を通じて教育を統制する趣旨が織り込まれています。しかも続く第17条では,政府に「教育振興基本計画」の策定・実施を義務づけ,これを国会での審議の対象から外しています。つまり教育は,政府が思いのままに策定する「基本計画」に基づいて振興が図られるべきものとなり,もし教育行政に異を唱えるならば,直ちにそれは「不当な支配」になりかねないのです。言うまでもなく現行法は,国家が教育内容を全面的に統制した戦前の苦い過ちをふまえて制定されたものです。国家の定めた「目標」の達成に向けて,政府が教育の営みを包括的かつ一元的に統制することを可能とする「改正」を,私たちは認めることはできません。
「改正」案のもとで大学もまた国家の統制を免れません。そもそも「教育の目標」の達成は大学にも義務づけられるものですが,加えて「改正」案第7条では,大学は「成果を広く社会に提供することにより,社会の発展に寄与するものとする」,と定められています。もとより「社会の発展に寄与する」ことは大学の使命ですが,政府が「教育振興基本計画」によって「社会の発展」の方向を策定し,大学の「寄与」を判別して財政誘導を行うとなれば,もはや大学における教育と研究の自由は存続しがたいものとなります。学問の自由を危うくし,大学における教育と研究を国家の「目標」の下に誘導しようとする「改正」を,私たちは認めることはできません。
以上のように教育基本法「改正」案は,民主主義と平和の実現をめざす現行法の理念を根本からくつがえし,教育の国家統制を正当化し,個人の精神の自由,教育・研究の自由を脅かす重大な危険を内包するものです。私たちは,群馬大学において教育・研究に携わるものとして,このような教育基本法「改正」案に強い不安と憤りを覚えます。現行教育基本法を堅持しその理念を実現させることこそが,教育本来のあるべき姿であり,日本の教育の未来を切り開くものであると,私たちは確信します。
ここに私たちは,教育基本法「改正」案に反対する強い意思を表明し,同法案を廃案にすることを求めます。